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岡倉天心全集のあゆみ

岡倉天心記念室の写真

岡倉天心全集のあゆみ

ある人物の思想や業績を学ぶとき、過去に遡り、彼/彼女らの生きた時代に触れようとするとき、文字で記録された日記や書簡など文献資料を通じて、その「肉声」に耳を傾けることは重要な作業になります。今日、天心のことを知ろうとする際に、膨大な資料がまとめられた岡倉天心の全集は大変に参考となる書籍です。これまで、天心の全集はたびたび編纂されてきましたが、ここではその歴史を紹介します。


大正2(1913)年、天心が逝去します。翌3年、弟子の横山大観や下村観山らは、天心を中心に創立された日本美術院を再興し、大正11年に『天心全集』が日本美術院より刊行されます。これは日本美術院創立25周年を記念して編まれたもので、冒頭の凡例に「天心全集の名を以て之を公刊し、聊か先生記念の微意を表せんとす」とあるように、天心を顕彰するような性格のものでした。 


昭和に入ると、天心全集は相次いで編纂されるようになり、より一層内容が充実していきます。昭和10(1935)年、天心没後20年を記念して、『岡倉天心全集』(聖文閣)が天心の息子・一雄の手により刊行され、さらに4年後には同じく一雄の編集で六藝社から全集が出版されます。この背景には、天心研究の需要が高まったことがありました。戦時下では、『東洋の理想』の冒頭「アジアは一なり」に代表される天心の言説は、残念なことに大東亜共栄圏を樹立すべく利用されてしまったのです。昭和19年、大観らが中心となった岡倉天心偉績顕彰会編集の『天心全集』の出版が計画されますが、これは敗戦によりわずか2冊の刊行をもって頓挫します。 


今日では、昭和54(1979)年から配本が始まった平凡社の『岡倉天心全集』が最も多くの人に読まれています。全8巻と別巻1冊から成り、天心が執筆した書籍や論文、家族や知人に宛てた書簡、天心オリジナルの漢詩などがひろく網羅されています。

岡倉天心の全集に関する主な出来事

岡倉天心の全集に関する主な出来事
和暦西暦事項
大正2年1913年新潟県赤倉にて天心没。
大正3年1914年横山大観、下村観山、小杉未醒らが中心となり、日本美術院が再興される。
大正11年1922年『天心全集』が日本美術院より刊行される。附録の『天心先生欧文著書抄訳』も刊行される。
昭和10年1935年『岡倉天心全集』が聖文閣より刊行される。
昭和13年1938年岡倉古志郎(天心の孫)が『東洋の覚醒』の遺稿を発見する。
昭和14年1939年新出の天心資料を採録した『岡倉天心全集』が六藝社より刊行される。
昭和17年1942年財団法人、岡倉天心偉績顕彰会が設立される。
昭和19年1944年岡倉天心偉績顕彰会編『天心全集』が創元社より刊行される。全6巻の計画であったが、昭和20年の第2回配本で終了となる。
昭和54年1979年安田靫彦・平櫛田中監修『岡倉天心全集』が平凡社より刊行される。

展示資料

日本美術院編『天心全集』(日本美術院発行)
大正11年(1922)、当館蔵

日本美術院創立25周年を記念して編纂された。「甲之一」「甲之二」「乙」の3冊から成り、英文による「乙」の編集校正には、天心の弟である英語学者のよし三郎さぶろうが尽力した。見返しには、大観と観山が六角堂を描いている。

岡倉一雄編『岡倉天心全集』(六藝社発行)
昭和14年(1939)、当館蔵

前年に新発見された「東洋の覚醒」が収録されるなど、昭和10年に聖文閣から刊行された『岡倉天心全集』の内容を拡充して再編した決定版である。一雄の「決定版刊行の辞」では、国際情勢を踏まえて天心の重要性が説かれるなど、戦時色を強めている。

岡倉天心偉績顕彰会編『天心全集』(創元社発行)
昭和19年(1944)、当館蔵

岡倉天心偉績顕彰会は、赤倉や五浦といった天心ゆかりの地を保存することなどを目的として昭和17年に設立された。会長は細川護立が、理事長は大観が務めた。同会の編集による『天心全集』は全6巻の刊行を計画したが、敗戦により計2回の配本で終了となった。見返しは同会設立者の一人である小林古径が、題字は大観が手掛けている。

 

担当:学芸員 塩田釈雄
本展示にあたり、木下長宏「昭和前期の岡倉天心」(『日本美術院百年史』第7巻、1998年)を主に参照しました。


掲載日 令和6年11月6日