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本日 5月1日(木)の開館状況

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おかくらてんしん

  • 岡倉天心イラスト
  • 岡倉天心ものがたり

Qアイコン岡倉天心おかくらてんしんって何をした人なの?

  • 日本の古い美術品(絵や仏像など)のよさを広め、守ろうとした。
  • 横山大観よこやまたいかんなど日本を代表する画家を育てた。
  • 日本や東洋の文化・美術を英語で世界に紹介した。

生まれてから

私の名前は、岡倉天心です。
1863年に横浜で生まれました。
このころの横浜は、外国の人がたくさん来て商売をしたり住んだりしていたので、私も小さいころから英語を勉強しました。

 

東京大学の学生だったころ、アメリカから来たフェノロサ先生と出会いました。先生は、日本の古い美術品(絵や仏像)が好きで、お寺や美術品を売っているお店によく出かけていました。私も先生と一緒に行くことがあり、日本の古い美術品に関心をもつようになりました。

 

1880年、17歳で大学を卒業した私は、文部省もんぶしょう(今の文部科学省もんぶかがくしょう)という国の役所に入りました。そこでは、美術学校や博物館をつくったり、日本の古い美術品を調べたりしました。そして、日本の美術のすばらしさを多くの人に伝えようとしました。そのころの日本は、外国からめずらしい物がたくさん入ってきていたため、日本の古い美術品のよさが忘れさられ、売りに出されたり、こわされたりすることが多かったのです。

石川屋。天心の父が開いていた店。生糸(綱糸)を外国に売る仕事をしていました。
フェノロサ肖像
私が生まれたとき、名前を「角蔵かくぞう」とつけられたのですが、あとから「覚三かくぞう」という字を使うようになりました。「天心」は、大人になってから使った名前です。
岡倉天心イラスト

東京美術学校から

1889年に東京美術学校とうきょうびじゅつがっこう(今の東京藝術げいじゅつ大学)ができると、私は昔から受け継がれていた日本の美術を大切にしながら、「写生しゃせい」などのヨーロッパの絵(西洋絵画)のよいところを取り入れて新しい日本の絵(日本画)をつくろうとしました。1890年、私は27歳で校長になりました。そして、やめるまでの約8年間に横山大観よこやまたいかん下村観山しもむらかんざん菱田春草ひしだしゅんそうなど多くの生徒が学んでいきました。

 

1898年、私が35歳のとき、東京美術学校の校長をやめて日本美術院にほんびじゅついんをつくりました。そこでは、美術の研究をしたり、絵の展覧会てんらんかいを開いたりしました。横山大観ら若い画家たちは研究を重ね次々と作品を発表しましたが、なかなか絵は売れませんでした。

 

そのころ私はインドの古い美術を調べるためにインドに行きました。そして、インドや中国、日本など東洋の文化のすばらしさを世界に伝えたいと思うようになりました。互いに尊敬そんけいしあえる友人タゴール(のちにアジアで最初にノーベル文学賞を受賞した人)と出会ったのもこのころです。

馬に乗った天心
タゴール肖像
私が校長だったころ、自分の家から学校まで馬でかよいました。着ている服やぼうしは私の意見をもとにデザインされた校服こうふくです。
校服のイラスト

五浦いづらに来て

活動(経営)がうまくいかなくなっていた日本美術院を東京からほかの場所に移し、もう一度やり直そうと考えた私は、1906年茨城県の五浦に横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山きむらぶざんを呼び寄せました。このころの五浦は、まだ家が少なく生活に不自由も多かったのですが、横山大観たち4人は家族を連れて移り住み、新しい日本画をつくろうと懸命けんめいに取り組みました。ここで描いた日本画は、展覧会で多くの人たちにみとめられ、今でもすぐれた作品として高く評価されています。

こんながけの上によくたてたものだと自分でもおどろきです。うしろに見える山のあたりに今は五浦美術館があるんですね。
日本美術院研究所

Qアイコンなぜ天心は五浦に来たの?

景色のいい静かな場所を探していた私は、北茨城市出身の画家・飛田
ひだ
しゅうざんの案内で五浦に来たのです。断崖絶壁だんがいぜっぺき奇妙きみょうな形の岩がゴロゴロしているこの場所を気に入った私は、土地を買って自分の家や六角堂をたてました。五浦にいるとき、私は六角堂から海をながめて考え事をしたり本を読んだりしていました。
六角堂

世界をかける

1904年からアメリカのボストン美術館で仕事をするようになった私は、1年の半分をアメリカで、残りの半分を五浦で生活するようになりました。美術館での仕事は、日本や中国の古い美術品を調べたり、新しく美術品を集めたりすることでした。そして、1910年には美術館の中国・日本美術部長になり、世界の色んなところに出かけました。また、「茶の本」など日本の文化について紹介する本を英語で出したり、講演会こうえんかいで話をしたりしました。この本は、フランス語、ドイツ語、スペイン語などにやくされて世界中の人々に読まれました。

 

若いころから無理むりをしたせいで、私は体をこわしてしまったのでアメリカの仕事を切りあげて日本に帰ることにしました。新潟県妙高高原にいがたけんみょうこうこうげんにある赤倉の別荘べっそうで体を休めることにしたのですが、病気はますますひどくなり、1913年50歳でこの世を去ることになったのです。私が死んだら、東京と五浦にお墓をつくるようにたのんでおいたので、今も五浦の海が見える松林の中にねむっています。そして、私のことは五浦を訪れた多くの人によって語りつがれています。

ボストン美術館
茶の本
五浦では釣りを楽しみました。和船とヨットを組み合わせたような船「龍王丸りゅうおうまる」をつくりました。その船の模型が岡倉天心記念室にあります。
岡倉天心記念室、船の模型

 

世界をかけめぐるマップ

五浦の作家たち

岡倉天心が日本美術院(絵画)を五浦に移したとき、家族を連れて移住した4人の日本画家を当館では「五浦の作家」と呼んでいます。

横山大観のイラスト

横山大観よこやまたいかん(1868~1958)

茨城県水戸市出身。本名は秀麿ひでまろ。 1889年、東京美術学校に一期生として入学。五浦で制作した「流燈りゅうとう」は茨城県指定文化財。

下村観山のイラスト

下村観山しもむらかんざん(1873~1930)

和歌山県和歌山市出身。本名は晴三郎せいざぶろう
1889年、東京美術学校に一期生として入学。代表作は「白狐びゃっこ」「弱法師よろぼし」など。

菱田春草のイラスト

菱田春草ひしだしゅんそう(1874~1911)

長野県飯田市出身。本名は三男治みおじ
1890年、東京美術学校に入学。「落葉」や「黒き猫」などの名作を残す。

木村武山のイラスト

木村武山きむらぶざん(1876~1942)

茨城県笠間市出身。本名は信太郎しんたろう
1891年、東京美術学校に入学。五浦で制作した「阿房劫火あぼうごうか」は茨城県指定文化財。


掲載日 令和6年12月10日