仏像を守り抜いた男 新納忠之介〜新納の国際的な活動〜
仏像を守り抜いた男 新納忠之介
今回のテーマ展示では、平成26年度に新納忠之介の旧蔵資料およそ2300点が当館へ寄贈されたことを受け、仏像の修復に生涯を捧げた新納の業績を紹介いたします。
新納が修復した仏像・神像は2600点以上に及び、その中には有名な東大寺法華堂不空羂索観音立像や蓮華王院三十三間堂の千体千手観音立像も含まれています。 廃仏毀釈の被害に晒された諸仏を救い、風化した文化財をよみがえらせ、まさに新納の存在なくしては、美しき神仏のすがたは後世まで伝わらなかったでしょう。新納は現状維持を基本とする修復方法を確立させましたが、新納が修復を手掛けた文化財のみならず、そうした理念もまた現在に受け継がれているのです。

東大寺より南都袈裟を拝領されたことを記念して(昭和10年)
新納の国際的な活動
明治30年代、東大寺法華堂の不空羂索観音立像をはじめとする国宝指定の文化財修復を手掛けた新納は、天心の強い勧めによって明治42年(1909)に渡米しました。天心が所蔵品の収集と整理を行ったボストン美術館にて、1年近く美術品の修復にあたり、翌43年にはロンドンで開催された日英博覧会の展示業務に携わったほか、ヨーロッパ各地を歴遊して西洋彫刻を目にする機会を得ています。昭和5年(1930)にはイギリス・大英博物館の依頼により法隆寺観音菩薩立像(百済観音)の模造制作を行うなど、新納の手腕には海外からも期待が寄せられました。
また、天心の助手を務めた美術史家ラングドン・ウォーナーとの交友は生涯に渡り、新納の旧蔵品にはウォーナーからの書簡や絵葉書をはじめ、家族ぐるみの親交をうかがわせる写真等が含まれています。奈良に居を構えていた新納は、インドの詩人タゴールやボストン美術館の関係者を神社仏閣に案内することもあったようで、文化財を通じて国際的に活躍する新納の姿を見ることができるでしょう。本展示では、滞米・滞欧期(明治42~43年)の新納にスポットを当てます。
新納忠之介年譜
明治元年(1868) | 鹿児島に生まれる |
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明治22年(1889) | 東京美術学校に入学 |
明治26年(1893) | 新納も制作に携わった楠公乗馬銅像(皇居前広場)の木彫原型が完成 |
明治28年(1895) | 東京美術学校助教授となる |
明治30年(1897) | 主任として岩手・中尊寺金色堂の修理を行う |
明治31年(1898) | 天心に従い東京美術学校の教職を辞職し、日本美術院の創立に参加 古社寺保存法に基づき、熊野速玉大社の神像等を修理 |
明治34年(1901) | 不空羂索観音立像をはじめとする東大寺法華堂の諸仏の修理に着手 |
明治39年(1906) | 日本美術院規約改正に伴い、第二部の責任者に任ぜられる |
明治42年(1909) | ボストン美術館の招聘に応じ、館所蔵の仏像等を修理 |
大正3年(1914) | 日本美術院より独立した第二部が「美術院」と改称し、院長就任 |
昭和4年(1929) | 大英博物館の依頼を受け、法隆寺百済観音立像の模刻を開始 |
昭和9年(1934) | 美術院院長を引退する(昭和15年(1940)に再任) |
昭和11年(1936) | 蓮華王院三十三間堂の千体千手観音立像の修理に着手(完成は昭和31年(1956)) |
昭和29年(1954) | 奈良の自宅で逝去 |
展示資料(すべて新納義雄氏寄贈)
岡倉天心「書簡・新納忠之介宛」明治42月9月29日
五浦に滞在する天心が、ボストン美術館で勤務する新納に宛てた書簡。翌年ロンドンで開催される日英博覧会、および博覧会終了後のヨーロッパ視察ができるよう各方面に交渉中の旨、伝える内容となっている。天心の努力が結実し、新納は明治43年ロンドンに渡り、博覧会場での陳列に携わった。
新納忠之介「欧州での記録等」明治43年
本資料は明治43年の日記にあたり、ヨーロッパでの旅程が記録されるほか、各地で目にした西洋彫刻がスケッチされている。3月29日にボストンを出港した新納は、4月6日にロンドン入りしている。5月14日に開幕した日英博覧会の展示図面が、陳列監督の任にあった新納の手で記録されており興味深い。5月21日より、新納は洋画家の二世五姓田芳柳、東城鉦太郎らとヨーロッパやエジプトを歴遊した。