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本日 8月19日(火)の開館状況

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トップ岡倉天心記念室テーマ展令和7年度(2025年4月~2026年3月)> 戦後80年 天心とウォーナー、そして新納忠之介

戦後80年 天心とウォーナー、そして新納忠之介

2025年8月19日(火曜日)~10月19日(日曜日)

 太平洋戦争が激化する昭和18年(1943)、アメリカで敵国地域の貴重な文化財を保護することを目的に「戦争地域における美術的及び歴史的記念物の保護及び救済に対するアメリカの委員会」が設立された。東洋美術史家ラングドン・ウォーナー (1881-1955) は、その極東部主任を務め、日本全国の重要な寺社仏閣等のリスト (いわゆる「ウォーナーリスト」) を作成した。戦後、日本では奈良や京都が爆撃から免れたのは彼の働きのためであるとされ、彼自身の否定の言にもかかわらず、日本各地で顕彰運動が沸き起こった。この誤解の背景には、ウォーナーが岡倉天心の薫陶を得て日本と深い関わりをもち、アメリカにおける東洋美術研究の第一人者であったことが影響しているかもしれない。

 明治39年(1906)、ボストン美術館中国日本美術部キュレーターの訓練候補生に選出されたウォーナーは、日本にいる天心を訪ね、五浦にも滞在した。東洋美術を学ぶことを希望する彼のため天心が紹介したのは、奈良にいる新納忠之介 (1869-1954) だった。

 東京美術学校で木彫を学んだ新納は天心の命を受け、奈良の日本美術院第二部 (彫刻部門) の中心として、近代的な仏像修復技術を確立して活躍していた。ウォーナーは約1年間、新納の家に寄寓し、新納の家族と生活を共にしながら仏像の様式や構造などを実地で学んだ。以後もウォーナーは度々日本を訪れ、二人の交流は生涯にわたり続いた。

 ここでは、明治43年 (1910)に再来日したウォーナーへの指導を天心が新納に依頼した書簡や、戦後、ウォーナーがリストの作成に対する率直な心境を新納に宛てて綴った書簡を紹介する。ウォーナーは「奈良や京都が爆撃から免れたのはアメリカ空軍の施策だった」と綴る一方、「もしリストが役立ったのなら、それはあなた (新納) のご教示の賜物です」 と新納に対し感謝の思いを述べている。

 文化財保護行政に尽力した天心と、彼の下で仏像修復に生涯を捧げた新納。両者の日本の文化財への愛情は国境を越え、ウォーナーへも受け継がれたのだった。

展示資料

  • 岡倉天心「書簡・新納忠之介宛」明治43年10月29日付、当館蔵(新納義雄氏寄贈)
  • ラングドン・ウォーナー「書簡・新納忠之介宛」昭和20年12月28日付、当館蔵(新納義雄氏寄贈)
  • 撮影者不詳「ラングドン・ウォーナー肖像写真 」明治41年、当館蔵(新納義雄氏寄贈)

ウォーナー.JPG
 

 


掲載日 令和7年8月19日