このページの本文へ移動
色合い 標準 青 黄 黒
文字サイズ 標準 拡大 縮小
RSS
文字サイズ
色合い

本日 5月1日(木)の開館状況

クリックすると、各館の案内がご覧いただけます。

トップ岡倉天心記念室テーマ展令和3年度(2021年4月~2022年3月)> 新納忠之介による仏像調査について

新納忠之介による仏像調査について

明治30(1897)年、岡倉天心の尽力により古社寺保存法が公布され、国宝(通称「旧国宝」。現在の国宝および重要文化財に相当)に指定された仏像が国家予算によって修理されることになった。天心により、日本美術院で仏像修理の責任者に抜擢された新納(にいろ)忠之介は、明治32年9月27日、内務省から「古社寺保存計画ノ調査」を委嘱され、同日付で東京・神奈川・静岡への調査出張を命じられている。 

 

記載内容と日付(年は不詳)から、その時の調査記録と考えられるノートが2冊残されている。1冊目では、新納は10月7日から24日まで静岡県内を調査して伊豆に至り、25日に神奈川県の箱根を抜け、小田原、静岡県熱海(神奈川県と隣接)へと足を伸ばし、29日の神奈川県大磯でいったん調査を終了していることが分かる。2冊目では、11月9日に東京から鎌倉入りし、10日には鎌倉を、11日からは神奈川県西部を、15、16日に三浦半島を調査し、3日間の休止を挟んで、20日から23日まで再度鎌倉を、24日は鎌倉と近い横浜金沢と藤沢を調査、25日に伊勢原の宝城坊(ほうじょうぼう)、さらに1日間(26日か)横浜の弘明寺(ぐみょうじ)と川崎の影向寺(ようごうじ)を調査していることが記載されている。なお、東京の調査記録を記したと思われるノートは現在所在が確認されていない。

 

ノートには調査した仏像の名称に「◎」「◯」の印や、「設計」「認定」などの注記があるほか、神奈川県内の調査ノートには修理候補と思われる仏像の一覧を記したページがあり、そこには鉛筆書きの本文と異なる墨書で「設計ノ分」の注記が記されているほか、線を引いて消されている仏像もあって、修理候補から外した様子がうかがえる。この一覧にある仏像の大半が調査直前の32年8月、もしくは翌33年に国宝指定を受け、33年から34年にかけて修理されていることから、この調査が修理を担う新納による実物調査と修理候補の絞り込みといった実効性のあるものだったことを物語っている。 

展示資料

内務省辞令「古社寺保存計画ノ調査ヲ職託ス」明治 32年 当館蔵(新納義雄氏寄贈)

内務省辞令「古社寺保存計画ノ調査ヲ職託ス」

内務省辞令「東京府神奈川県静岡県ヘ出張ヲ命ス」明治 32年 当館蔵(新納義雄氏寄贈)

内務省辞令「東京府神奈川県静岡県ヘ出張ヲ命ス」

新納忠之介ノート(調査記録:静岡、神奈川) 明治32年頃 当館蔵(新納義雄氏寄贈)

2冊のノートは同じメーカーのノートで、1冊目は10月7日から10月29日まで静岡・神奈川両県の、2冊目は11月9日から11月25日まで(その後一日分の記録には日付がなく26日実施と推測)の神奈川県内の、それぞれ寺社調査の内容が主に鉛筆で記されている。東京・神奈川・静岡三府県の調査出張を命じる9月27日付辞令と矛盾のない日程、および記録内容から、この辞令を受けて調査した際のノートと推定できる。

 

1冊目のノートは、冒頭約30ページにわたり調査と無関係の仏像や仏具などのスケッチが描かれており、調査にあたって転用したものと思われる。2冊とも、基本的には見開きの左ページを使って調査内容を記録、右ページはメモ欄のように使っているため、11月20日と21日の間に記された「設計ノ分」の仏像一覧がいつの時点で記されたかは不明である。

 

般若院・伊豆山権現立像について、「修復ニハ大困難ノ方ナリ」と記され、仏像修理を始めて3年の若き新納の心情がうかがい知れる。 

 

新納忠之介ノート

新納忠之介ノート

新納忠之介ノート(調査記録:神奈川) 明治32年頃 当館蔵(新納義雄氏寄贈) 

新納忠之介ノート

「設計ノ分」記載仏像と国宝指定年月・修理年対照表

新納忠之介ノート

 

関連資料


掲載日 令和6年11月14日