下村観山《雨の芭蕉》について
2026年8月4日(火曜日)~10月18日(日曜日)
下村観山は幼少より狩野芳崖に、その後橋本雅邦に師事し両者のもとで伝統的な狩野派の筆法を学んだ。芳崖と雅邦はともに狩野派の伝統を継承しながら岡倉天心の影響を受け、近代日本画の礎を築いた画家として知られる。観山は芳崖から「北心斎東秀」の雅号を授けられ、東京美術学校入学後の明治22年頃(c.1889)から「観山」の号を使い始めた。「観山」の号は、「人あり来たつて塵世を問へば対へず起つて山を観る」の古語に由来する。横山大観によれば、この雅号は岡倉天心から授けられたという。
《雨の芭蕉》には、「観山」の落款の下に「東秀」の印が押されている。本作は、雅号を改めたばかりの観山が、明治23年、東京美術学校の校内競技会に出品し、好評を得た作品である。
昭和6年(1931)に東京府美術館で開催された「故下村観山遺作展覧会」の出品目録によると、本作の所蔵者は、福岡県門司市(現・北九州市門司区)の米山辰夫となっている。また、昭和11年に恩賜京都博物館と東京美術学校で開催された「下村観山遺作展覧会」においても、米山は東京から本作を出品している。この米山辰夫は、岡倉天心の長女・高麗子の夫である。米山は鉄道省へ勤務し、各地への転勤を重ねた後、昭和20年に高麗子とともに五浦へ移り住み、同年末に五浦でその生涯を閉じた。本作は、観山から天心を通じて高麗子に贈られ、米山家で保管されたと考えられる。米山没後も本作はしばらく同家に伝えられ、五浦で保管されていた時期もあったと推測される。
《雨の芭蕉》は、若き日の観山の画業を伝えるのみならず、師・岡倉天心の娘夫婦によって受け継がれた貴重な作品である。また、出品目録に記載された地名の変遷からは、米山が転勤先にも本作を伴って行った可能性がうかがえる。
展示資料
下村観山《雨の芭蕉》明治23年、複製画(原資料:個人蔵)






