“巨人逝く”天心を悼むボストンの友人たち
2025年3月18日(火曜日)~8月17日(日曜日)
大正2年(1913)9月2日、激動の時代を駆け抜けた岡倉天心は、満50歳でその生涯を終えた。天心逝去の報は国内で大きく報じられ、開成学校の同窓生でもある外相・牧野伸顕の追悼文が翌3日の『報知新聞』に掲載されるなど、美術界からは天心の死を嘆く声が多数寄せられ、雑誌『研精美術』は「巨人逝く」と先覚者・天心の死を巻頭で伝えた。葬儀は800名、一説には1000名もの参列者があったといわれ、その後11月15日にも、天心が開校に尽力した東京美術学校で追悼会が執り行われた。
天心逝去の知らせは海を越え、海外の友人たちのもとに届けられた。特に長年の勤務地であったボストンでは衝撃をもって受け止められた。四十九日の忌日にあたる10月20日には、イザベラ・ガードナー邸で日本式の追悼会が催された。ボストン美術館の紀要でも追悼記事が出され、執筆者のウィリアム・スタージス・ビゲローとジョン・エラートン・ロッジは東西の融合者として亡き天心に最大の賛辞を送っている。
本展で紹介する資料は、天心没後間もないボストンの友人たちから新納忠之介に宛てられた書簡である。書簡からは、彼らが大きな悲しみに暮れていること、また天心の死は日本だけでなく、ボストンにとっても損失であることなどが述べられている。なお新納忠之介は天心の指導のもと文化財修復を手がけた人物で、明治42から43年にかけて、ボストン美術館でコレクションの修復業務に従事している。新納は書簡を通じて、ボストンの関係者に天心の死を伝えていたらしい。天心の訃報は、早くも9月5日にボストンの日刊紙で報じられ、また9月20日にボストン美術館の紀要にも掲載されたが、命日に誤りがあるなど、内容はやや正確性に欠けるものであった。そのような状況のなか、新納の書簡は彼らに天心最期のときの詳細を伝える役割を担ったようだ。
展示資料
アーサー・フェアバンクス「書簡・新納忠之介宛」(大正2年9月6日)当館蔵(新納義雄氏寄贈) ※展示期間:3月18日~6月1日
ジョン・アーサー・マックリーン「書簡・新納忠之介宛」(大正2年10月15日)当館蔵(新納義雄氏寄贈) ※展示期間:6月3日~8月17日
ボストン美術館『館報』大正2年12月 当館蔵 ※展示期間:6月3日~8月17日