岡倉天心について

日本美術院創立当時の岡倉天心
また、天心は晩年、思索と静養の場として太平洋に臨む人里離れた茨城県五浦(現在の北茨城市五浦)に居を構える一方、横山大観ら五浦の作家達を指導し新しい日本画の創造をめざしました。以後、天心は亡くなるまでこの五浦を本拠地として生活することになります。
それでは、次に天心の生涯とその業績等についてその概略をご紹介いたしましょう。
天心の生涯
生い立ちと修業時代

文久3年頃の横浜風景(部分)
(『イラストレーテッド・ロンドン・ニューズ』より)
(『イラストレーテッド・ロンドン・ニューズ』より)
明治8年(1875)、東京開成学校に入学し、同10年(1877)には同校が東京大学と改称されるに伴い文学部に籍を移し、お雇い外国人教師アーネスト・フェノロサ(1853-1908)に政治学、理財学(経済学)を学びます。
天心は、日本美術に傾倒したフェノロサの通訳として、行動を共にするようになり古美術への関心を深めます。
美術行政への参画と古美術の調査

東京美術学校制服姿で愛馬若草号に騎乗する校長岡倉天心
(明治25年11月)
(明治25年11月)
理想の実現に向けて 日本美術院の創立

創立当時の日本美術院正員
後列右端が岡倉天心、4番目が菱田春草、6番目が下村観山、左端が横山大観 前列左より7番目が橋本雅邦
後列右端が岡倉天心、4番目が菱田春草、6番目が下村観山、左端が横山大観 前列左より7番目が橋本雅邦
その院舎はアメリカ人ビゲローなどから資金援助を得て、東京上野谷中初音(やなかはつね)町に建設され、美術の研究、制作、展覧会などを行う研究機関として活動を始めました。
横山大観、下村観山、菱田春草らの美術院の青年作家たちは、天心の理想を受け継ぎ、広く世界に目を向けながら、それまでの日本の伝統絵画に西洋画の長所を取り入れた新しい日本画の創造を目指したのです。その創立展には、大観「屈原(くつげん)」、観山「闍維(じゃい)」、春草「武蔵野(むさしの)」などの話題作が出品されました。
東洋の美と心を世界に 国際人「KAKUZO」

1900年代初頭のボストン美術館全景
明治34年(1901)、インドに渡った天心はヒンズー教の僧スワミ・ヴィヴェカーナンダ(1863-1902)を訪ね、東洋宗教会議について話し合いますが実現には至らず、彼の紹介で出会った詩人ラビンドラナート・タゴール(1861-1941)やその一族と親交を深めました。また、インド各地の仏教遺跡などを巡り、東洋文化の源流を自ら確かめた天心は、滞在中に『The Ideals of the East(東洋の理想)』を書き上げています。
同37年(1904)、アメリカに渡った天心は、ボストン美術館の中国・日本美術部に迎えられ、東洋美術品の整理や目録作成を行い、また、ボストン社交界のクイーンと呼ばれた、大富豪イザベラ・ガードナー夫人と親交を深めることになります。一方天心に従って渡航した横山大観、菱田春草らは、ニューヨークをはじめ各地で展覧会を開き好評を博しました。また、天心は講演会や英文の著作「The Book ofTea(茶の本)」などを通して日本や東洋の文化を欧米に紹介しました。その後、天心は五浦とボストンを往復する生活を送ることになりました。
新たなる飛躍の地「五浦」

仲秋観月の園遊会にて(五浦の天心邸で)前列右端が天心、その後ろ右端より大観、観山、春草、 一雄(天心の長男)、武山 (明治40年9月)
一方、日本美術院は、天心や横山大観など主要作家の海外旅行による長期不在が重なるなどにより経営難に陥り、その活動も衰退したため、同39年(1906)、天心は日本美術院の再建を図りました。それまでの美術院を改組し、その第一部(絵画)を五浦に移転しました。天心はここを「東洋のバルビゾン」と称して新しい日本画の創造をめざし、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山を呼び寄せました。
生活上の苦境に耐えながらも大観ら五浦の作家達は、それまで不評を買った「朦朧体」に改良を加え、同40年(1907)に発足した文部省主催の展覧会(文展)に、近代日本画史に残る名作を発表していきました。
晩年

天心宛てプリヤンバダ書簡(1913年7月4日付)とプリヤンバダ・デーヴィー・バネルジー
