岡倉天心について

ボストン美術館での岡倉天心
また、天心は晩年、思索と静養の場として太平洋に臨む人里離れた茨城県五浦(現在の北茨城市五浦)に居を構える一方、横山大観ら五浦の作家達を指導し新しい日本画の創造をめざしました。以後、天心は亡くなるまでこの五浦を本拠地として生活することになります。
それでは、次に天心の生涯とその業績等についてその概略をご紹介いたしましょう。
天心の業績
古美術の保存、保護に尽力

明治23年頃のフェノロサ
同19年(1886)天心が文部省の命により奈良地方の古社寺調査をまとめた報告書「美術保存ニ付意見」は、文化保護について最も早く適切な提案をしたものとして今でも高く評価されています。
亡くなる直前まで、病気を押して古社寺保存会に出席し法隆寺壁画保存の建議書を文部省に提出するなど、晩年まで天心の文化財保護に対する情熱は変わりませんでした。
このような天心の文化財保護に関する綿密な調査活動と優れた見識は、明治30年(1897)公布された「古社 寺保存法」に反映されています。また、天心の古美術保存の精神は、昭和4年(1929)の「国宝保存法」、さらに昭和25年(1950)の「文化財保護法」制定へと受け継がれ、今日の文化財保護の礎になっています。
新しい日本画の創造

五浦の日本美術院研究所で制作に励む作家たち 手前から木村武山、菱田春草、横山大観、下村観山
しかし、この作風は一般には理解されず、当時のジャーナリズムにいかさま車夫いわゆる朦朧(もうろう)車夫に由来する蔑称(べっしょう)として「朦朧体」と呼ばれ不評を買いました。
五浦で制作された大観「流燈(りゅうとう)」、観山「木の間の秋」、春草「賢首菩薩(けんじゅぼさつ)」、武山「阿房劫火(あぼうごうか)」などの近代日本画史に残る名作は好評を持って迎えられ、天心の指導のもと個性的な日本画が創造されていきました。
東洋文化の欧米への紹介

「The Book of Tea
(茶の本)」初版本
(茶の本)」初版本
まず、「Asia is One」で始まる『The Ideals of the East(東洋の理想)』が、天心のインド旅行中に書き上げられ、明治36年にロンドンのジョン・マレー社から、また翌年『The Awakening of Japan(日本の覚醒)』がニューヨークのセンチュリー社から出版されました。これらは、ともに西洋文明に対抗してアジアの連帯と自主というテーマによって貫かれています。
これに対しニューヨークのフォクス・ダフィールド社から出版された『The Book of Tea(茶の本)』は、茶の歴史、その流儀、道教と禅などの7章から構成され、茶をテーマに日常生活における自然と芸術の調和を説いたもので、日本の文化思想を紹介した著作物として世界的に高い評価を得ました。当時多くの国で翻訳、出版され、東洋・日本文化を知るテキストとして愛読されました。この『茶の本』が岩波文庫により日本語版として我が国に紹介されたのは、昭和4年のことでした。
天心と五浦での生活

五浦での釣り姿の岡倉天心
(明治40年頃)
(明治40年頃)
この五浦で天心は、日々釣りや読書をする一方、六角堂で思索をするなど、空と海を眺め大自然と一体となる隠棲といえる生活をおくります。こうした五浦の悠久な大自然の姿は、「五浦即事」と題する漢詩によく詠われています。
ところで、この五浦で釣りに熱中した天心は、地元平潟に住む釣り名人、鈴木庄兵衛(すずきしょうべえ)に釣りの手ほどきを受けたり、渡辺千代次(わたなべちよじ)に操船や水先案内人をさせたりして楽しんだということです。さらには自ら考案したヨットのようなセンターボードを取り付けた釣舟「龍王丸」を船大工に造らせるほどでした。
晩年の天心は、漢詩や書簡の末尾にしばしば「五浦生」「五浦老人」「五浦釣人」などの号を用いており、五浦に対する深い愛着をうかがうことができます。