岡倉天心記念室テーマ展示

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再興日本美術院と美術院 ~大観・観山、新納忠之介による継承~

再興日本美術院と美術院 ~大観・観山、新納忠之介による継承~
再興日本美術院と美術院 ~大観・観山、新納忠之介による継承~

明治39 年(1906)、岡倉天心が主宰する日本美術院は組織を改定し、絵画制作を中心とする第一部を茨城県五浦に移転させ、国宝修理を行う第二部は奈良東大寺勧学院を拠点とする体制に再編されました。しかし、第一部の五浦時代は長くは続かず、大正2年(1913)に天心が亡くなると再興に向けた話し合いがもたれました。

今回ご紹介する大正3年5月7日付けの横山大観と下村観山による連名の書簡は、第二部の責任者(監督)であった新納忠之介に宛てられたもので、再興に至る日本美術院の動きを示す貴重な資料です。冒頭には、天心没後その遺志を継いで日本美術院第一部を再興し、本拠地も五浦から東京谷中へと戻すこと、着工した新たな研究所の完成も間近であることが記されています。また、再興後の日本美術院三則にも含まれる「新日本の藝術樹立に益する所あらん為」や「自由研究」といった文言が使用され、活動の目的が明確に表明されています。そして最後に「何分本院とハ別種のもの」として第二部の名称変更が天心の遺言でもあったということを確認して、忠之介にその検討を依頼しています。

この後、天心の一周忌である大正3年9月2日、大観・観山らは完成した日本美術院研究所において開院式を執り行い、翌月には展覧会(再興院展) を開催するなど美術団体としての歩みを進めます。一方で忠之介は同じく9月2日に「美術院規程」を定めて、第二部を独立させて「美術院」と改称し、院長(主事) として国宝修理事業を継続するための組織を整えました。こうして異なる専門性に特化して新たな歩みを始めた再興日本美術院と美術院は、創立から100年を超える現在も存続し、新しい日本画の創造と文化財保護という天心の推進した活動の理念を今日まで伝えています。

 

展示資料
「高村光雲を囲んでの集合写真(勧学院にて)」

明治40年頃(c.1907)
当館蔵(新納義雄氏寄贈)
※後期展示(3月12日〜5月12日)、前期は複写を展示

再興日本美術院と美術院 ~大観・観山、新納忠之介による継承~
再興日本美術院と美術院 ~大観・観山、新納忠之介による継承~

日本美術院第二部の事務所が置かれた東大寺勧学院での集合写真。当時在籍していた15名の所員とともに、中央には顧問・高村光雲(1852-1934)が加わっている。天心からの信任が厚かった光雲は、対外交渉や事務などの実務遂行、資金の調達に尽力するなど運営面に影響力を持っていた。

横山大観・下村観山「書簡・新納忠之介宛」

※新納忠之介による写本
大正3年(1914)5月7日、当館蔵(新納義雄氏寄贈)

再興日本美術院と美術院 ~大観・観山、新納忠之介による継承~
再興日本美術院と美術院 ~大観・観山、新納忠之介による継承~

大正3年4月1日、横山大観・下村観山ほか数名の発起で日本美術院再興の協議がなされ、谷中の新しい研究所が着工される。この新納忠之介に宛てた書簡は5月末に研究所の上棟を控えたタイミングのものである。原本は失われているが、忠之介の写しによってその内容を確認することができる。

「美術院事務所(奈良無量院内)での天心命日の供養」

大正6年(1917)9月2日
当館蔵(新納義雄氏寄贈)
※前期展示(1月10日〜3月10日)、後期は複写を展示

再興日本美術院と美術院 ~大観・観山、新納忠之介による継承~
再興日本美術院と美術院 ~大観・観山、新納忠之介による継承~

岡倉天心の命日である9月2日には、再興日本美術院、美術院(明治44年、水門町の無量院に事務所を移転)ともに祭祀を欠かさず行い、今日に至るまで毎年継続されている。大正6年の供養の写真には、大正3年に写された再興日本美術院発起時のものと同じく横顔の天心の遺影が掲げられている。

 

 

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