岡倉天心記念室テーマ展示

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再興日本美術院の五浦遠足

展示期間:令和6年5月14日(火)~7月28日(日)

 

再興日本美術院の五浦遠足

再興日本美術院では、大正13年(1924)から昭和11年(1936)にかけて、院に所属する作家たちの親睦を深めることを目的に、定期的に遠足が開催されました。大正14年の第2回遠足では、前期日本美術院の絵画部の拠点となっていた地であり、岡倉天心ゆかりの地でもある五浦が選ばれました。
五浦遠足には院外からも参加があり総勢50余名。9月12日早朝に上野駅に集合した一行は汽車に乗り、昼頃関本駅(現・大津港駅)に到着しました。大観邸まで車馬不通の峠道を汗だくになりながら歩きました。到着するとすぐに浴衣に着替え、我先にと海へ飛び込みました。夜は大観邸の庭で相撲をとったり踊ったりして過ごしました。
翌13日は鉦鼓洞しょうこどうに出かけました。鉦鼓洞とは大観邸の崖下にある洞窟の名で、洞穴に海水が押し寄せ、チャポン、チャポンと響くことに因んで徳川光圀みつくに(1628-1700)が名付けたと言われています。一行は昼食後、平潟を経由して勿来関なこそのせき跡を目指しましたが、疲れ果てて海を眺めながら夕方まで過ごしました。帰りは勿来駅の汽車に乗り、夜遅くに上野に到着して解散しました。
令和5年度、この五浦遠足に関する資料が当館の所蔵となりました。これは大観が大正年間に大津町の町長を務めた永山冨士太郎(1861-1928)に送った書簡で、そこには遠足の実施と、「日本美術院前身の発祥地」を画家たちに披露したい思いが綴られています。五浦は日本美術院第一部の移転の地ですが、「日本美術院前身の発祥地」という表現からは大観の強い思い入れが窺えます。
本展示では大観の書簡を中心に、五浦遠足に関わる資料を紹介します。

 

展示資料
横山大観「書簡・永山冨士太郎宛」

新収蔵資料
大正14年(1925)8月23日 ※年月は書簡内容より推定
当館蔵(鈴木弓氏寄贈)

五浦遠足会の前に書かれた書簡。書簡には永山から大観に贈られたあわびに対するお礼や、歓迎会の実施を辞退する旨が書かれており、互いを思いやる様子が伝わる。書簡に年月の記載はないが、「残暑烈しく」という表現から大正14年(1925)8月に書かれた書簡であると推定した。

再興日本美術院の五浦遠足
再興日本美術院の五浦遠足 再興日本美術院の五浦遠足
タゴール五浦来訪時の集合写真(五浦天心邸にて)

大正5年(1916)8月24日
撮影:東京朝日新聞写真部
当館蔵(小野秀雄氏寄贈)

大正5年(1916)、タゴールが五浦を訪問した際に撮影した写真。永山は右から3番目に写っている。永山は大正4年から昭和2年(1927)まで大津町長を務め、六角堂をはじめとする岡倉天心ゆかりの施設管理に関わった。自らも絵を得意とした永山は、大観たちと懇意にしていたのだろう。

再興日本美術院の五浦遠足
再興日本美術院の五浦遠足
再興日本美術院の五浦遠足(大観の別荘にて)

大正14年(1925)
当館蔵

大正14年(1925)9月12日、大観の別荘にて撮影された写真。この頃大観の自宅は東京にあり、五浦の家は別荘として使用されていた。写真には50余名の参加者たちが浴衣姿で写っており、大規模な遠足であったことが窺える。人名は遠足の参加者から特定できる人物のみ記載した。

再興日本美術院の五浦遠足
再興日本美術院の五浦遠足
再興日本美術院の五浦遠足(五浦海岸にて)

大正14年(1925)
撮影:大塚如水
当館蔵

大正14年(1925)9月13日の午前中、五浦名所の一つである鉦鼓洞しょうこどうへ向かうため、崖下に下った際に撮影したものと思われる。ふんどし姿の参加者たちが天岩戸あまのいわとの開扉のパフォーマンスに興じる姿が写され、仲睦まじく楽しげな様子が伝わる。人名は写真裏面の書き込みを参考に記載した。

再興日本美術院の五浦遠足
再興日本美術院の五浦遠足

 

 

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