岡倉天心記念室テーマ展示

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タゴールと五浦

来日時のラビンドラナート・タゴール
来日時のラビンドラナート・タゴール
タゴールと五浦

ラビンドラナート・タゴール(1861-1941)はインドを代表する詩人・画家であり、また教育者・思想家として知られています。1913(大正2)年には、詩集『ギーターンジャリ』によりアジア人として初のノーベル文学賞を受賞し、これを契機に日本でもタゴールへの関心の高まりがみられました。1901(明治34)年から翌年にかけてインドに渡った岡倉天心は、カルカッタでタゴールと出会っています。二人は互いの国の民族、文化、芸術、思想を認め、尊重し、共感し合うなど、深い友情で結ばれ、その後も交流が続きました。
天心没後の1917(大正5)年5月、日本への憧憬の念を抱いていたタゴールは念願の初来日を果たし、約3ヶ月余の滞在でしたが、横山大観たちの日本美術院をはじめ各地で熱烈な歓迎を受け、講演会などを行っています。そうした中、タゴールは8月22日から25日まで天心の墓参と静養を兼ねて北茨城市五浦を訪れています。最寄りの関本駅(現大津港駅)に到着したタゴールと関係者の一行を乗せた五浦へ向かう人力車は、十数台に及んだといわれ、町挙げて歓迎する地元の人で湧いたそうです。五浦滞在中のタゴールは天心の遺族や地元大津町の人からの温かいもてなしを受けています。
当コーナーではタゴールに関わる写真や書、資料によってその五浦訪問の様子を紹介します。

ラビンドラナート・タゴール「オーム」

大正5年(1916) 長松寺蔵

この書は五浦を訪れた際、六角堂に籠(こ)もり瞑想したタゴールが亡き天心を偲んで書いたものと伝えられ、天心夫人の基子に贈られたものである。このサンスクリット語で書かれた「オーム」とは無限で永遠なるものを表し、宇宙との一体化を祈る象徴的言葉である。後年、天心の孫古志郎によって由来書きが添えられ、地元北茨城市の長松寺に納められた。

※由来書きには五浦に来て「五日の後」に記したと書かれているが、当時の新聞『いはらき』(大正5年8月25日付)などによれば、滞在4日目に帰京している。

ラビンドラナート・タゴール「オーム」 ラビンドラナート・タゴール「オーム」
岡倉古志郎による由来書き
(画像クリックで拡大)
横山大観「五浦スケッチ」

大正5年(1916)

横山大観「五浦スケッチ」
この絵図は五浦を初めて訪れるタゴールのために、大観が道先案内として描いたもの。五浦の地形の特徴と共に六角堂や日本美術院研究所などの建物をはじめ、五浦岡倉邸(△Idzura Mr.Okakura's house)や横山邸(◎Yokoyama's house)などが記号と英語で書き込まれている。この資料はタゴールの来日に随行したインドの青年画家ムクル・デが旧蔵していたもので、インドから日本に里帰りし、平成10年当館に収蔵された。
五浦天心邸におけるタゴールを囲んでの集合写真

大正5年(1916)8月24日(朝日新聞写真部撮影)

五浦の天心邸の庭で撮影された集合写真。ここではタゴールを中心とし、その周囲には基子夫人や天心の長男一雄夫妻など岡倉家の親族をはじめ、地元大津町の有力者、タゴールの随行者らが集っている。タゴールは浴衣の上に基子夫人から贈られた岡倉家の紋入り羽織をまとい、膝には天心孫の古志郎が肩を寄せるなど、和やかな雰囲気が伝わってくる。なお、この写真には写っていないが、滞在中、天心の弟由三郎や下村観山、木村武山ら日本美術院の画家たちも駆けつけたといわれている。

五浦天心邸におけるタゴールを囲んでの集合写真

後列右より、児玉素光(画家)、小野金次(後の大津町町会議員)、永山富士太郎(大津町長)、ムクル・デ(インド人・画学生)、橋本永邦(画家)、岡倉一雄(天心の長男)、ピアソン(イギリス人・タゴール学園関係者)、荒井芳枝(基子の妹)、江原利之介(大津尋常高等小学校長)。前列右より、小野きよ(小野金次の娘)、岡倉孝子(岡倉一雄の妻)、ラビンドラナート・タゴール、岡倉古志郎(天心の孫)、男子一人おいて、江原文代(江原利之介の娘)、岡倉基子(天心の妻)


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