岡倉天心記念室テーマ展示

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仏像を守り抜いた男 新納忠之介

仏像を守り抜いた男 新納忠之介

今回のテーマ展示では、平成26年度に新納にいろ忠之介ちゅうのすけの旧蔵資料およそ2300点が当館へ寄贈されたことを受け、仏像の修復に生涯を捧げた新納の業績を紹介いたします。
 新納忠之介(1868-1954)は鹿児島に生まれ、東京美術学校で高村光雲に彫刻を学びました。全国の文化財保護に奔走していた天心に手腕を見込まれ、明治31年に行われた古社寺保存法に基づく第1回目の修復事業に携わるなど、天心の指導下に仏像を中心とする文化財の修復を手掛けました。
 新納が修復した仏像・神像は2600点以上に及び、その中には有名な東大寺法華堂不空羂索観音立像や蓮華王院三十三間堂の千体千手観音立像も含まれています。 廃仏毀釈はいぶつきしゃくの被害に晒された諸仏を救い、風化した文化財をよみがえらせ、まさに新納の存在なくしては、美しき神仏のすがたは後世まで伝わらなかったでしょう。新納は現状維持を基本とする修復方法を確立させましたが、新納が修復を手掛けた文化財のみならず、そうした理念もまた現在に受け継がれているのです。

新納忠之介

東大寺より南都袈裟を拝領されたことを記念して(昭和10年)

東京美術学校時代

 文化財の修復家として活躍した新納。多くの国宝彫刻の修復を手掛けたその手腕は、岡倉天心が校長を務めていた東京美術学校で学ぶ中、培われた部分が大きいでしょう。
 明治22年(1889)、彫刻科に2回生として入学した新納は、高村光雲らのもと彫刻を学びます。在学中は優秀な成績を収め、明治25年には特待生となって授業料を免除されています。学内で開催された校友会でも度々優等賞を獲得し、新納の旧蔵資料にも当時の褒状が残されています。また、美術学校が依頼を受け彫像した楠木正成像の製作にも携わっており、像を前にした集合写真に若き新納の姿が見えます。
 明治27年に美術学校を卒業した新納は、翌年、助教授に就任。明治30年には工事主任として中尊寺金色堂の仏像修復を手掛けます。明治31年、いわゆる美術学校騒動が起きると、新納は天心に付き従って学校を去り、大観や春草とともに日本美術院の創立に参加します。活動の拠点を移した後も、全国の寺社を調査して文化財の修復に邁進するなど、まさに八面六臂の活躍が始まるのです。

東京美術学校の卒業写真(前から3列目、左から2番目が新納)

東京美術学校の卒業写真(前から3列目、左から2番目が新納)

新納忠之介年譜
明治元年(1868) 鹿児島に生まれる
明治22年(1889) 東京美術学校に入学
明治26年(1893) 新納も制作に携わった楠公乗馬銅像(皇居前広場)の木彫原型が完成
明治28年(1895) 東京美術学校助教授となる
明治30年(1897) 主任として岩手・中尊寺金色堂の修理を行う
明治31年(1898) 天心に従い東京美術学校の教職を辞職し、日本美術院の創立に参加
古社寺保存法に基づき、熊野速玉大社の神像等を修理
明治34年(1901) 不空羂索観音立像をはじめとする東大寺法華堂の諸仏の修理に着手
明治39年(1906) 日本美術院規約改正に伴い、第二部の責任者に任ぜられる
明治42年(1909) ボストン美術館の招聘に応じ、館所蔵の仏像等を修理
大正3年(1914) 日本美術院より独立した第二部が「美術院」と改称し、院長就任
昭和4年(1929) 大英博物館の依頼を受け、法隆寺百済観音立像の模刻を開始
昭和9年(1934) 美術院院長を引退する(昭和15年(1940)に再任)
昭和11年(1936) 蓮華王院三十三間堂の千体千手観音立像の修理に着手(完成は昭和31年(1956))
昭和29年(1954) 奈良の自宅で逝去
展示資料(すべて新納義雄氏寄贈)
楠公銅像原型制作関係者 明治27年(1894)

 現在、皇居近くに設置されている楠木正成像は、大阪の住友家が東京美術学校に依頼して制作されたものである。同校教授の高村光雲は、ブロンズ像の原型となる木型の制作主任を務め、学生であった新納は手綱を握る右手を制作したという。写真は木型完成記念に撮影されたもの(写真左端が新納)。

楠公銅像原型制作関係者
東京美術学校 卒業証・新納忠之介宛 明治27月(1894)7月11日
東京美術学校

 

文部省 辞令・新納忠之介宛 明治31月(1898)4月25日
文部省 辞令・新納忠之介宛

 東京美術学校の校長を務めていた天心は、その活動に批判的な人々の讒言にあって職を追われ、明治31年3月、文部省に辞表を提出した。天心と志を同じくした新納は、大観らとともに同校を辞職。7月に天心が創設した日本美術院のメンバーとして、以後活動することになる。

 

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