岡倉天心記念室テーマ展示

ホーム > 展覧会> 岡倉天心記念室 >テーマ展示
QRコード携帯電話でも当館の情報をご覧になれます。
左のQRコードを携帯電話で読み込んでアクセスして下さい。

アドビリーダー
*PDFファイルをご覧になるには、アドビリーダーが必要です。お持ちでない場合は、上のバナーのリンク先からダウンロードして下さい。

早崎稉吉の中国旅行―史跡写真をめぐって―(Ⅱ)

早崎稉吉の中国旅行―史跡写真をめぐって―(Ⅱ)

当館では早崎稉吉(こうきち)が撮影したガラス原板289点を所蔵しており、中国旅行の際に撮影した史跡や風景と見られる写真も100点ほど含まれている。中には岡倉天心による明治26年の清国出張随行時の写真もあるが、大半の写真が撮影地、撮影年とも不明となっている。
一方で、近年東京国立博物館が早崎稉吉撮影の写真を所蔵している情報を得て調査したところ、それらの写真の台紙には早崎自筆と思われる撮影地の書き込みがあり、また台紙に貼付された東京帝室博物館(東京国立博物館の前身)の備品票から博物館に所蔵された年代も明らかになった。これらの写真と当館所蔵のガラス原板を比較することで新たに16点の撮影地が判明し、早崎の中国での足跡を裏付けることが可能となった。
ここでは、撮影地が新たに判明した早崎稉吉撮影の中国風景の一部を紹介すると共に、中国滞在中の日記や旅券などを併せて展示して、早崎による中国旅行の実情や様々な苦労を押してもなお中国美術の調査に情熱を燃やした早崎の業績の一端に触れてみたい。
早崎稉吉(1874-1956)

三重県津市に生まれる。早崎家は旧藤堂藩士。明治24年(1891)画家を志して上京、橋本雅邦に入門するとともに岡倉天心の書生となり、翌25年東京美術学校絵画科に入学する。在学中、天心の命により写真術および中国語を学び、明治26年天心による中国美術調査のための清国出張に同行、中国各地で130枚以上の写真を撮影している。明治30年東京美術学校を卒業、写真や文化財行政の分野で活躍した。明治32年、35年に中国に渡るほか、36年から3年半西安に滞在、帝室博物館の嘱託により古美術調査に従事している。一方、天心が明治38年ボストン美術館中国・日本美術部顧問となり、翌39年に行った第2回中国旅行へ同行したのをはじめ、天心没後もボストン美術館の美術品購入のためにたびたび訪中した。

早崎稉吉
明治37・38年の中国調査旅行

明治36年、早崎稉吉は西安にある三原大学堂の教師として招かれるが、一方で東京帝室博物館の嘱託として西安のある陝西(せんせい)地方の史跡と文化財の調査を行っている。
明治37年は7月14日から8月16日まで西安の東に位置する龍門石窟の調査・撮影旅行を行い、翌38年には7月17日から8月13日まで西安の北方富(ふ)県にある石泓(せきおう)寺から西安の北東方向河津(かしん)市の禹門口(うもんこう)を巡っている。
それぞれ約700㎞におよぶ距離を馬によって移動する旅路は、「荷物を轉(転)覆三回ニ及び四ツ の外箱大体壊」(明治38年7月22日付)してしまったり、真夏だけに「炎々たる暑気にて大ニ疲勞(労)を感じ」(同年7月23日付)ながらの困難を伴うものであった。早崎の日記にはこうした苦労が日々記されているが、一方で文化財と対峙した時の感動も多く綴られている。早崎が苦労しながらも旅行を続けたのは、岡倉天心の下での調査という使命感に留まらず、優れた美術や史跡に触れられる絶好の機会であったことが大きかったのであろう。

写真のサイズのことだが、ここではガラス乾板のことを指す。

明治37・38年の早崎稉吉夏期調査旅行行程
早崎稉吉日記  明治37年(1904)7月27・28日

早崎は明治26年に岡倉天心と共に龍門石窟を調査しているが、この時天心は「他日考古の人必ズ一登スべきの価アリ 我も亦再ビ来ラント欲ス」と述べている。天心の腹心として文化財調査に携わっていた早崎にとって、龍門の再調査は念願の旅行であったといえよう。
 日記によると、7月26日に龍門に到着、翌日から龍門を出発する前々日の8月4日まで、体調不良(31・3日)や雨天(5日)を除く延べ7日間撮影を行っている。さらに「龍門を見ざるもの天下北魏(ほくぎ) ヲ語るを得ずかな」という26日の日記からは、この調査への意気込みが伝わってくる。
 なお、27日訪れた古陽洞の石仏について「其の光背のシリヤ式なる描法の古拙なる法隆寺以上なり」と、早崎はそれぞれの仏像を比較した上で見解を述べている。このことから美術史学の基礎的な方法論を天心から学んでいたことがうかがえる。

386年から534年まで続いた王朝で、493年洛陽を都とした。共に世界遺産に指定される雲崗石窟(山西省大同市)と龍門石窟など仏教文化が花開いた。特に龍門石窟の北魏後期の様式は、日本の飛鳥仏の源流とされる。

早崎稉吉日記  明治37年(1904)7月27・28日
読み下しへジャンプ
早崎稉吉日記  明治38年(1905)7月25・26日

明治38年の調査旅行は西安の北方富(ふ)県にある石泓(せきおう)寺を目的地とするもので「愈(いよいよ)北山行なり。此の行平生の望を遂げ」(明治38年7月16日付)るものであった。北魏から清代にかけて造られた7つの石窟からなるこの寺院のことを、早崎がどのように聞いていたかは明らかでないが、「規模も作位も龍門に劣る」(7月25日付)という言葉からは、その期待を大きく裏切るものであったことが分かる。当初富県からさらに北の延安まで脚を伸ばす予定であったが、「到底金*1元の悪作ニ接スルヨリ更に望みなければなり」(同日付)と考えて目的地を大幅に変更、「普通の游山旅行」となった。この後早崎は夏(か)王朝*2の初代皇帝禹(う)が治水したとされる黄河の禹門口(うもんこう)を訪れている。

*1 北宋を滅ぼし、1115年から1234年まで続いた中国北半分を支配した王朝。南宋と対峙したが、のち元に滅ぼされる。 *2 紀元前21世紀頃から17世紀頃まで存在したとされる中国最古の王朝。伝説の王朝とされてきたが、近年考古学的成果からその存在が見直されている。

早崎稉吉日記  明治38年(1905)7月25・26日
読み下しへジャンプ
護照(ごしょう) 清国外務部 明治42年(1909)5月12日発行

護照(旅券)は中国国内を旅行する際に携行する必要があった。この護照は明治42年4月ボストン美術館の中国日本美術部監査顧問となった早崎が、同年5月から翌年3月にかけて大同や西安を調査した時に中国(当時は清)政府から発行されたもので、大同のある山西省や西安のある陜西省が目的地として記載されている。
 なお、明治38年7月23日付の日記によると、同日早崎は稉(ふ)州(現在の富県)の州長官に護照の提示を求められている。この時のことを「豪慢なる奴なり。旅人の特色を見いず護照の有無を問ひ、頗る無礼なり」とも記している。
 宣統元年は清国の暦で明治42年にあたる。

護照 清国外務部 明治42年(1909)5月12日発行
早崎稉吉日記読み下し
明治37年7月27日
五時起床。古陽洞ニて側面二枚及
カビネ 子二枚を写し其の盛ナルに驚
き板を惜む。□人ニ命して先づ
拓本ニ□へナセしむ。其の光背
のシリヤ式なる描法の古拙なる法
隆寺以上なり。大佛を見て愉
快さ十倍す。十二時入床。

明治37年7月28日
五時起床。賓陽洞及近傍をまず先
写し午后南方ニ小佛を写し
午后五時大佛など写し□
か迷ふたり。結果いかにや。正面
の大佛 *1八丈五尺*2とハ驚きたり。しかも
唐代の傑作其の顔面の優れ
たる他ニ比を見ず。□□のやさ
しき唯丈けの低きハ如何。夜換
*3。十二時入床。食事まづし。

*1 奉先寺洞盧舎那仏坐像のこと
*2 約25・6メートル
*3 換板・・・ガラス乾板の交換


五時起床、出発。種々の望みを以て此の暑い中を我慢
してやったりしが、午前十時半石空寺 ニ着。想左百分一
に及ハず。僅カニガンダラ式の五体と金元の模様天井
等ニて規模も作位も龍門に劣る。数十□千里不進
而来遺感知る可し。石質ニ於テ場所ニ於テ到底
永劫の作を傳べき所ニあらず。二時辞して帰路ニ就
く。拓山寺を遠望して遂ニ登ラズ。日暮れて厘念局ノ
あるルイ家タンニ一泊す。驚きたる生活なり。夜に強
酔、此ノ苦悶を消し、九時入床。

石泓寺のこと

明治38年7月26日
四時起床、半出発。暁風身染みて心地宜し。失望
を以て再び旧山河ニ對す。張村驛ニて朝食を終
へ渡河。北魏式仏像を得て十時半揚荘ニて
午食、一睡。二時出発。五時稉州 ニ入る。洛川□
ニ決心す。延安行を続行しても到底金元の悪作
ニ接スルヨリ更ニ望みなければなり。韓城ニ出て禹の偉
業を見て稉陽ニ行き普通の游山旅行の方まし
なればなり。夜に一酌。十時入床。

現在の富県
このページの先頭へ